昭和43年01月11日 夜の御理解



 今日は一日、ほんとの意味で有り難い、お取次ぎばかりと言うてよいほどの、お取次ぎさして頂きましたが、本当にお礼心いっぱい、喜びいっぱい本当に親先生おかげ頂いてから、もうほんとにこのおかげ頂いて参りましたら、五年先十年先の事を思うだけでも心がもう熱うなるほど有り難うなってくる。この信心さえ頂いて行けば、ほんとにこう言う有り難い信心を分らせて頂いて、親先生有り難うございます、と言った様な、まっ一日連続だったですね。
 お参りも大変今日多うございましたが、いっつもあれいまその事をお届けさして頂きよった久留米の佐田さんで御座いました。久留米にお野菜を中心にして食料品をしておられた時分の事から、日田で酒屋をされた、から現代佐田よの支店を賜って、おかげを受けておられる間のおかげを受けられてこられた、信心を進めて来られた、その事をもうほんとにあの、今お届けされましたが。今おかげを受けたもんじゃあるなぁと私が思うくらいにおかげを受けておられます、ね。
 只々神様のおかげの間違いなさに、只々毎日毎日家族中のものがみな感じ、それこそ御礼の生活をさせて頂いておると。まっその内容を申し上げますと、大変素晴らしいお話いくらもあったんですけれども、その要点だけを申し上げますとね、たとえていうと野口さんなんか今日はお孫さんの初参り、今日は丁度日晴れそれなんかやっぱりね。ほんとにこの親先生がおられなかったら、この子はこの世におらなかったに違いない。と言うほどの事であって、それが大変なおかげを頂いて。
 母親の方もまだすっきりとしませんから。姉さんとそれから、お母さんとそれから子供同道でお礼参拝して参りましたが、先日産後にひどい熱が出て43度からあった。そう言う様な事が続いてその中にやす子さんというね。ほんとにもう私が兄弟の中で一番無信心だけども、今度という今度はもう誰んでも負けんごと信心させて頂くばいちゅうてからその、お母さんやら姉さんたちにその言うておりますち。ね、
 先日も休ませて頂いておるお夢のなかにですね、大変ひどかったんでしょう。そしたらそのう、白木の御棺があった。そのお棺の中に自分が足をこうやって踏み込みよった。そしたらね合楽の親先生が見てからやす子さん、何しよるとかぁち引張って、もうびっくりしてですね、それから震いが震いが来た。あんまりびっくりして。実際にそれは。ね、して、これで助けるぞていうてその感激をしておりますというのです。
 今日山口の長田先生がお参りに、正月初めてお礼に出て見えられましたが、この前のお参りの時に、先生こんなお夢を頂いたんですけれどもとお届けされめす。タイガーポットですか、タイガー印のポットがありますね。あれを頂きますタイガーと言う事は、虎と言う事だから、まあ合楽の親先生のことじゃろうと、こう思わせて頂きましたけれども、なんのためのこれが、言うならば矢張りあのま大難を無難、または小難という、おかげ頂く様な事でしょう。
 先日も申しておりましたが、今日見えてから先生帰りましたらそのことが、たっぷり起こった。あちらの先生もういいお年ですが、信者さんのうちに霊祭と宅祭りと一緒にあった。行かれたそしてお祭りを済まれて、ご直会を頂きかかれたらそのまま倒れた。ね、医者はもうそのまま絶対安静と言うてね、半身が不自由になられましたが、連れて帰られないところを連れて帰って、もうおかげを頂かしてもらってもう現在では、まっおかげで朝のご祈念にぼつぼつ御出来になられるそうですけれども、昼はいつも様に奉仕の御用ができられるようにおかげを頂かれた。
 そして思われ語られる事なんですね、その前にタイガーのお知らせを頂いっとたが、ほんとにもし私が合楽にご縁を頂いて日々ですね、合楽にお取次ぎ頂いてなかったら、もう恐らくは冷たくなってしまっておっただろうとこう。ポットのおかげでですね、おかげで冷たく冷たくなると言う事は死ぬると言う事でしょう。ね、そういう大難をもう一時、先生に生き取って頂かなければどうにも出来ません。
 私もこちらに通うて信心する事も出来ません。何時もこの様なおかげ頂いて、と言うて今日はお礼のお届けがあっとりましたがね。そのまほんとに今日はですね、そう言う様な親先生のそのおかげで、そのおかげでと言った様なそのお届お礼で御座いました。繁男さんところも今日は、お孫さんの初参りがございましたが、やっぱりそうでした。ほんとにおかげを頂いたなぁと。大体もう何時間も遅くなりましてですねその出産が。ほいでもう医者は難産と言う事だったんです。
 難産どころかもうほんとに嘘の様な軽いおかげを頂いて、まっ娘の子を頂けたんですけれども。そこん所をそれをお取次ぎさせて頂くたんびんに、あんたおかげ頂いたね、おかげ頂いたねとこう言いながら私の心の中にはですよ、もうほんとにこれは私の親である所の善導寺の初代荒巻弓次郎先生のご霊神様、久留米の初代の石橋先生のご霊神様、福岡そして小倉の桂先生のご霊神様たちのお御苦労というもの、いわゆる先生方のお取次を頂いてからの事、私で出来ません所を神様。
 御霊様までがこうやってお取次ぎを、私が直接お願いをして御霊様が見向きもなさらない様な時でも。桂先生の御霊様にお願いをすれば、桂先生のお徳で、お取次ぎを下さったり、ね、とても私の力で及ばない所を荒巻弓次郎先生にお願いさせて頂きゃ、そこが出来たりと言った様なあの、是はもう日々がそうで御座いますけれども、そういうおかげに中に、そう言うお取次の働きの中におかげを頂いておる。
 ほんとにそりゃ私共はそれをお取次ぎさして頂いておるだけであって、私の力なんかである事じゃないと言う事を是はもう誰よりも私自身がもう本気でそれを思うとります。ね、まっそういうひとつの現われがここでは霊神様へのごひれいが非常に強いのですね、もうそれはほんとに、そうした私共の手続きの親である所の霊神様方のですね、もうお力によらなければ出来るこっちゃない事ばっかりなんです。
 そしてま色々思うんですね。今日も今日はもうあちらへ、ここへ下がりましてからでもずっとあのもう、まっ年にこれにしかこんと言った様な人達が参りますもんですから、お正月のしるしを致しましたり、またその私が下がっておりましたらこたつの間で、まっ一日お取次ぎさせて頂いたんですけれども。皆さん帰られたその合間にです、若先生と二人で話た事で御座います。特にこの寒修行が始まってこの方、あの皆が信心のその生き生きとして進んでいかれると言う事が有り難い。
 又はおかげを受けておられる事が有り難い。こちらがちょっと生き生きとした信心にならせて頂きゃ、神様がこんなにも生き生きとして働きを見して下さる。と言う中からでした。最近頂く御理解でも、もうほんとに教祖のみ教えに、例えば今日あたりの御理解なんか頂いてもですね、はぁほんとにあの信心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよ、なんてもう大変な難しい話であり、実際はもう不可能と言う位に教え伝えると言う事は難しいのですよ。
 その証拠には大徳の先生の所で、二代が継がない様な事があったり、ほんとにお父さんは、立派な信心をしておられたのに、子供に信心が伝わっていなかったと言う事が沢山あるでしょうが。けども今朝の御理解を頂いておると、こりゃもうほんとに私どもがその気になりゃ案外、ね、教え伝えなければおられないのであり、また教えを受けなければ馬鹿らしいのであり、しかもこの様な見やすい生き方であり方で、教祖のいわばあの御教え、ご神意というものをですね。
 こう言う説き方を持ってすりゃわかるだけではなくてほんとに有難いと言った様な事が、ね。最近み教え御理解なんかの新しい一つの説き方と言うかね、その深さと言うかそれに触れさせて頂くと言う事はほんとにお道の信心を、ほんとに研究しようほんとに分らして頂こう、ほんとに教えの深さに触れようという人達がもしおったら、それこそもうほんとに心わくわくで頂くような、御理解だったねと言うてから、話し合った事で御座います。その中にもです。
 最近私が申しております、あの天地書附じゃありませんね。あの御理解の中にあります今月今日で一心に頼めい、おかげは和賀心にありと仰る、そのおかげは和賀心にありと仰るその和賀心にもならずして、信心にもならずして、なら一心に頼んでおるというだけでおかげだけを受けておると言う事実がですたい、是は丁度若先生是はこう言う様なおかげの頂き方は、神様に借金になるようなもんばい。ね。信心もでけずに和賀心にならずに頂きよるのじゃけん、借金になりよるち。ね、
 本気で一つ和賀心になる事を、今日は今朝からの御理解からこう頂いて、成程本気で努めなければいけないねと言うて話した事で御座いましたがね。ね、例えばですそうして信心もできませんのにおかげを受けておると言う様な事ではです、ね、今日私が今申しております。皆んなここで親先生の通りで今日が御座いますと、親先生あなたのおかげでこの子は助かっとると、親先生のおかげでもうほんとに片足お棺の中に突っ込みよりよるのが助かっとりますというて。
 親先生あなたのおかげで、あなたのおかげでとこう言う。ね、そこん所にですね、私は借金にならんで済むおかげを頂きよる感じがする。ね、私がこれしこ信心してあんたにもこげんやってお縋りして、こげな修行もしたと言うのじゃなくて、ほんとに親先生のおかげでと言うとこそしてならそれをです。私が取り次がせて頂いて、そうじゃんの私が取り次いでやっとるけん、あんたが冷たくならならなんとが、ここに生きとるとばいと言う様なものじゃなくてです。
 もうそれこそ私の信心はでけませんけれどもです、ね、私共の手続きの親である所の各霊神様がたのお徳により、お力にお縋りさせて頂いてから、この事がそうあるのであり、合楽のごひれいがあるのであると私はもうそれを思いこんどる。そこには信心はなかってもです、借金になってはおらん感じがする。ね、そして例えばなら少しでも和賀心にならして頂く、少しでも信心を分らして頂く事はです。
 ほんとにその様なおかげう受けておる所のお礼のしるしに、私共がこの信心が愈々成されていくなら、もう鬼に金棒である。ね、和賀心にならせて頂くと言う事をです、おかげを受けるからでなくて、その和賀心にならせて頂くと言う事をです、おかげを受けておるとこのお礼の印に有難うならして頂こう、和らぎ喜ぶ心にならして頂こう。受けておるおかげは皆んなあなたのおかげでですと言う事になってくる。それをほんとにその今日若先生が申しておりましたがですね、今日東京から手紙が参りました。
 あちらに稔さんたちが九州にあのちょうど4日の霊祭をあちらでもこちら遙拝させて頂くつもりで仕えさせて頂いて、そしてま色々お話をして皆が集まってそのお話をさせて頂きよるときに、第一お父さんなあの晩何時ごろ亡くならっしゃったちゃろうかちから、その話を一生懸命しよった。そしたら丁度10時20分にですね、その話をしてる部屋だけの電気がぷっつと消えた。して他はどうもそれがなぁんも故障がなかった。
そういや、ほんとにあの、まっあのここでも丁度あのその話をしておる時に、あの10時20分に大きなおいさみがありましたですね。ほんとにあん時はあげんじゃった、ていうてから、二人で話したことでした。ほんなこつね生きた神様働きと言うか霊神様の働きていうか、お父さんも和子さんのお取次ぎさせて頂いてから。昨日あの向こうでお父さんのお祓いの声がするから、もうそれこそもうびっくりしてですね。
 それに唱和させて頂きながらご祈念を仕えさせて頂いたちゅうてお届けしよったが、それが先生今日もまた続きましたちちゅうてお届けされます。ね、生きたそうした御霊様の働きとか、そういう生きた神様の働きというものをですね、なら私は今日は申しますような所からですね、それを愈々その働きを働きとして現わす事が出来る。慢心は怪我の元と仰るが慢心じゃない。ほんとにそういうもうほんとに私は無力、私は何にもできんのだけれども、親先生のおかげで助かっておりますという。
 私は又私の手続きの親である先生方のおかげ、また恐らくは桂先生でも石橋先生でもです、ね、お初にお取次ぎこうしてさせて頂きよるが、ね、四神様のおかげで教祖の神様のお徳によっておかげを頂いております、大坪がこうこうごひれいを頂いております、というてお礼を申し上げておるに違いない。ね、それが教祖の神様に繋がり、それがそのまま天地へ繋がる。天地と同根と仰る教祖の神様、また教祖の神様は天地の神様のおかげでと言う事になっておられるに違いない。
 ここに天地に一貫したね、おかげの頂けれる道が信心。それを例えばなら私共がです、私がこれだけの修行をしたから、私がこれだけの信心をしたから、私がこれだけ勤めておるからこうと言う事に成った時にですね、もうそこで一つのものがぷつっとこう遮断されるような気がする、ね。そう言う様な意味で今朝から今朝からじゃない。特にこの寒修行が始まってから。
 ここで久富繁男さんが毎朝もうそら素晴らしいその御神夢を頂かれるんですね。だからいっちょ紙に書きとめて控えておきなさい、ちゅうて私ここずっと控えで毎晩朝の頂かれたこと、控えておられますがね。その中にも例えばあの、総代たちの事に対してから高芝さんを代表で頂いておる中にですね、いまこそね総代たち全員がですね、あの丁度大祭の時に学生会、青年会であの下駄扱われます、あの信者の下駄預かりでもするごとある心の状態で信心を進めよと頂いた。ね、
 又は次にですね、あの永瀬さんのご信者さんも御承知のとうりですけれども、永瀬さんのことを聞いたら皆んなが朝の寒中修行のあの朝早くの目が覚めるくらいなあの修行を総代させて頂け、と言う様な事を頂いておる。例えばこれはあの若先生が今日もその事のことを言ってましたですけれど、あのたばこの火、火が付き根元に少し破れているのを若先生が私にやろうと持ってこられた、所をご心眼に頂いた。
 自分自身もですねそういう事を頂いた。灰皿の中に逆さまにこうやって置いておる所を頂いたとこう言う。若先生が愈々そこに一心発起しなければならん事柄とこう思うんです。弘子先生と久富繁男さんの真ん中に若先生が黄ないがかったうどんをこう持って来たところ。これなんかも弘子先生は教師、久富先生、勇さんは信者、信者と例えていうなら先生のその中間にある。黄な色ちゅうのは中間、それがようやく言うならま、代用食的なままになっておるような状態だ
 。だから神様厳しくですね、そうして総代なら総代に、若先生は若先生にそう言う様なそのお知らせを持ってから信心を進めて行けよとこう、そういう厳しい例えば御修行を求められることもです、ね。今日私が申しますような信心内容をほんとに身に付けて、力を受けお徳を受けておかげを受けて行かなければならないと言う事他ならないので御座います。だからもう神様がですね。
 なにもその面白がってご心願やらどんどん下さっておるんじゃない。だからそれをほんとにあの無にする事なしにです、それをほんとにあの頂いて愈々信心修行に。これで神様しませんよというもうその探りを入れるような修行じゃなくてですね、的確にっこの修行に取り組めばおかげになると言うのですから、有り難い事ですね。どうか信心を進めて行かなければなりません。
   どうぞ。